中学では簡単に挫折したが、今ならなにをしても挫折感をさほど感じない。
そのかわり、苦しみと引き換えに得る達成感もない。
年と共に考え方が変わった。
視野が広くなった。
選択肢が持てるようになった移民公司。
こうでなければならない、という凝り固まった考え方をしなくなった。
学校と家庭しかない、他にはない、この自分が今置かれている道しかない、と逃げ道や出口がない中学時代とは違う。
まだ子供である学生さんはたいへんだ。
どんな家庭であろうと逃げられない。変えられない。
わたしは、当時は居心地の悪い家が好きではなかったので、行ってきま?す、と家から出られたら、それでまあ気分転換できた。
出向く行く先は学校しかなかったが。
学校が楽しいわけでもないとしても、家よりマシだったかも知れない。
ふてくされて不良になる要因は抱えていたが、不良にはならなかった。
過去ブログにも書いたが、不良がカッコいいと思えなかった。
なぜなら、当時わたしが目にしていた不良たちは、落ちこぼれの学生だったから。
脱落した学生が寄り集まり、数でチカラを示していた。
1人では拗ねるだけだが、複数になるとマイナスエネルギーがプラスに転換できたような錯覚に陥っていたのだろう。
わたしは、不良たちがプラスではなくマイナスの要素を持つメンバーばかりだったため、魅力を感じなかった。
仲間に入れてあげるよ、と誘われても(誘われなかったが)、感覚的に合わなかった。
家も嫌、学校も嫌、クラブも挫折、塾も劣等生、、、よくこれで、不良にならなかったものだ。
親友はいたが、社会人になってからそれ以来、ぷっつり親交は途絶えている香港移民加拿大。
親友といっても、いつも一緒に行動して、遊んだり、自分の気持ちを吐露して憂さを晴らすだけの相手だったのだろう。
学生時代の友人なんて、そんなものかも知れない。
今までわたしは、挫折ばかりして、なに一つものになったことがない。
それでよく腐って不良にならなかったものだ。
自分でも不思議だ。
挫折するのがわたしのスタンダード、定位置か。
くよくよ落ち込まないが、弊害はある。
それは何ごとに対しても自信がないということ。
苦難を乗り越えたことがない。
成功経験がない。
かといって、腐ってはいない、自己否定もしない。
わたしはこういう人間なんだという自覚があり、べつにそれで罪を犯しているわけではない。
手に入れたいことがあれば、ちょっと手を伸ばして頑張る。
力が及びそうもないなら、策士になって策を練る。
ダメモトで、自分の欲求や、こころの声を聞いて、努力する。
脱落したり達成せず挫折したりを繰り返して自信喪失していても、七転び八起きの積み重ねは自分を強くする。
失敗や挫折にへこたれない精神、それは自信につながる。
なので、挫折もわたしの勲章の一つである。
あらま、そんな勲章ばかりだ。
ホンモノのトロフィーがない。
が、いいの、いいの。
夢見て頑張りたいと思う気持ちが大事。
トロフィーより、わたしは自分の欲求が沸き起こる、膨らむ気持ちを大切に思う。
なぜなら、何もやる気がない、したくない、何も欲しくない、食べたくない、見たくない、聴きたくない、、、
何の欲求も好奇心もなく、いたずらに時間だけが過ぎていくのは、次のステップのためのエネルギーチャージ段階ならともかく、自分自身に活力がある今の理想や目標としていないbirmingham 樓價。