娘に後見人になってもらっ

ケチだと思われたくなくて、趣味仲間との飲食の際に相手が支払わない時は自分が払う。
だが、こんな根拠、理由ではいずれ破綻する。

相手によっては、支払っても、嫌ではないこともある。
いや、喜んで支払う。
それは娘一家との飲食。
(ご馳走してくれたら、かえって窮屈)
ではあるものの、娘婿が親が支払うことに気を遣うので、それに対して気を遣う。
いずれもっと歳を取り弱りに弱り、立場が逆になれば支払ってもらう。(たぶん、そんな日は、娘に後見人になってもらっている)
今の日本は、少し前の世代のほうが経済的に恵まれている。
年金の額も違う。
少子高齢化で、若い人は多くの高齢者を支えて大変だ。
そういう意味もあって、出過ぎず甘やかし過ぎず自立心を失わせず、手助けしたい。
援助とまではいかない。
あくまでも、手助け程度。
自分のことは自分でする、若い人に世話にならないように努力するのも、手助けのようなもの。
親子間では、足を引っ張らず、迷惑をかけず、良い距離感を保ちたい。
が、そんな理想的なことばかり、うまく行かない展開も大いにあり得る。
その時は互助会の精神で。

お金を稼ぐのは、大変である。
危ない橋を渡る場合も、お金のため。
それで身を持ち崩すこともある。
お金は人を狂わせる。
なんでだろう?
生活できるだけのお金があっても、もっと欲しがる、麻薬的、媚薬的、万能薬的効力がある。

一昔前は、男性が支払うのが普通だった。
今は違う。
だが、意識が古い人もいる。
女性も支払うべきであるが、何も相手の分まで支払う必要はない。
まして、自分のほうが年下なら、先輩を差し置いてというシチュエーションは避けたい。
やはり、ワリカンが1番平和だと思う。
そう強く自分の考えを認識した。

それはそうと。
今日は急に雨が降り、帰りに寄り道、飲食はしなかった。
そんなかんじで、誰が払う?ではなく、自然な成り行きに任せるのが良いかも知れない。

綺麗に終活の仕上げにか

家終い、仏壇終い、墓終いをする人が昨今、どんどん増えている。
墓は、永代供養にシフトし、自分たち代わりにお寺などに供養してもらう。
さぞや肩の荷が降りることだろう隱適美 價錢

かたや、墓地を買って準備している人もいる。
まだお墓には誰も入っていない。
買った当人が、第1号としてその新規墓に入る。
ひょっとすると、一代限りで墓終いされるかも知れない。
が、買った当人が知ったことではない。

主に、墓終いや仏壇終いを実践するのは、女性。
男性は、保守、反対派。
反対はするが、日頃の維持の役割は女性まかせ。
女性たちが、子供の世代には自分たちのような苦労はさせたくない、と、連鎖にピリオドを打つ。
男性にも、後の世代に迷惑をかけたくないと、あっさり、キッパリ、自分が亡くなる前に終活をしている人もいる。
が、女性のほうが、男性より長生きする傾向にあるので、終活の持ち時間が長いpet ct費用
しかも、夫にあれこれ文句、口出しされるのは鬱陶しいので、夫があの世に行ってから、誰にも邪魔されず綺麗に終活の仕上げにかかる。

お一人様女性は多い。おばあちゃん、長生き。
非婚、死別、色々ある。
一人だと、生活を便利に簡素化したくなり、断捨離に精を出すかも知れない。
その一方で、ゴミ屋敷の人もいる。

わたしは、亡くなってからも夫の墓に一緒に入りたくない、と思っていた頃もあったが、今は、どうでもいい。
残った人がやりやすいようにしてくれたらいい。
生きているうちに墓を先に建てようかと思うぐらいだが(縁起が良いとされるらしいが)、それよりももっと先にすべきことが山積み。
自分の墓になどとても着手できない。
後回しの最たるもの前列腺肥大治療
それこそ息を引き取る瞬間まで手を付けなさそう。
息が止まったら、後は知らない。

なんていうこともある

絶対に人の話を聞かない。
自分の考えを曲げない。
自分がこうと思ったら、それ以外は全く認めない。
諸説ありますね、という柔軟な逃げ方、濁し方が出来ない。
カチンコチンで鋼鉄のよう。
なので、意見が合わない話になると、話の途中でわたしは降りるxero

「はい、この話、おしまい。
これ以上は、不毛なので時間の無駄遣い!」

議論を戦わすのは理解を深める意味でも悪くない。
賛否両論あって当たり前。
「ふむふむ、そういう考えや見方もありますね、でも、わたしはこうです」
なら良いが、「ふむふむ」の部分がない。
頭から「違う」と決めつける。
なので、その話は切り上げる。切り捨てる。

これがもし、建国の話や領土の話しなら、大変なことになる。
しかも長い長い時間、解決できないことだとすると。
火種は火種として、そっと触らず温存するしかないのかも知れない。

上述のKさんなど、かわいいものだ。
わたしとしては、広く深く知った上で自分の考えや方針、意見を持ちたい。
そんな見聞や考えもあるのかと、驚く。
弊害としては、知るばかりで一向に考えがまとまらない、決まらない。
だが、熟考ではなく感覚で決めたのにもかかわらず、結果的には良い判断だった、なんていうこともある。
何が良く何が悪かったかなど、後になってみないとわからない。
検証は後からSophos endpoint

利害関係が絡むと複雑、深刻になる。
理想論では収まらない。
政治家の皆さんは、よくまああんなに大変な仕事を責任を持って引き受けるものだ。
政治学なんていうのもあるし、法律などと一緒に学ぶのだろう。
歴史、経済、文化、、、色々絡み合う。
1番小さなコミュニティである家族、しかもミニマム中のミニマム、二人だけでも、上手くいかないことがある。
難しいものである。

住めば都。
例えば、フランスと母国との比較。
軸足がある方に、重心がある。
いつまでもバランスよく両足で立てない。
しかし、片足より、やはり両足が揺らぎがない。
ではあるものの、片足だと、いつも次の動き、移動をスタンバイできる。
一長一短。
両足だと安定するが動けない。
片足だと、ぐらつくが、ハイブリッド・カーのように臨機応変にシフト出来る。
危機に瀕した時のピンチヒッター。
2本の大黒柱。
逃げ道があるか、ないか。
煮詰まった時に逃げ道がないと、壊れる持續進修基金課程
空気抜き、息抜きがあると、しのげる。
皆さん、工夫しておられると思う。

しか見えない状態から一

西洋への憧れは、キラキラ光り輝く面しか目に入らなかった無知による。
偏見と思い込み。
ではあるものの、普通の人々の暮らしは暖かいものだったBB無便便

今でも、どの部分を見て、どの部分を見ないかによって、感想は変わる。
全てをわざと見ないのか、見ようとしないのか、
好きなことばかりや刺激的なことを見ようとするのか。
目に入っても脳が素通りして、見えていないのか。
端から端まで、浅く広くなら見れても、深くは見れない。
総合的に俯瞰的に見るか、ピンポイントで見るか。
ピンポイントは、どれを選ぶか選択によって、ずいぶん変わってくる。
どんぴしゃり、真ん中、平均のピンポイントなど、あるのだろうか。
中央値は、必ずしも1番多いゾーン、層だとは限らない助聽器比較

と、話がどんどん脱線している。
いつも、こう。

大人になるにつれ、見える景色が広がる。
見識が深まると、さらっと表面に現れているものしか見えない状態から一歩進む。
が、それが良いとは限らない。
曇ったメガネや、低視力の裸眼でさらっと見るだけのほうが良い場合もある。
わざと見ないのか、心がなく注視してないから見えないのか。
シーンシーン毎に、鮮明モードを切り替えられたらいいなあ、、、だが、意識して選択すると脳が疲れて休む間がなくなる。
なので、わたしに関しては、気の向くまま、気分次第でよい。
第一、コントロールできないし。
制御不能は、神様からのプレゼントだろう超声刀

切れるんだろうなあと思っ

ちなみに。
2週間ぐらい前に、どっさり野菜をもらった。
かなり大きな、蓋が空いた野菜用段ボール箱に、これでもかというぐらい色んな野菜が詰め込まれていた牙齒美白
前から野菜はまだまだあったところに、更に前日に野菜を追加して買ったばかりだったので、かなりダブついた。
(特に、人参、サツマイモ、椎茸、ミョウガ、オクラ)
ニラ2束、ピーマン2袋、ミニトマト、シメジ2パック、椎茸2パック、舞茸、エリンギ、ゴーヤ、青梗菜、とうもろこし4本、きゅうり5本?、茄子、ミョウガ3パック、オクラ2パック、パプリカ(赤)大1個、パプリカ(黄)大1個、人参4本、サツマイモ、大根、玉ねぎ、、、
さらに、根切りした太いネギ、たくさん。

小学校の給食係のごとく、必死で消費した。
まだ、パプリカ(赤・黄)、椎茸、ネギは残っているものの、冷蔵庫の野菜室からはみ出て、満杯の野菜の数々に、冷蔵庫を開けると灯りが見えなくて暗かった状態はとりあえず脱した。
やれやれ。

娘一家にも、もらってもらったが、調理担当は娘婿なので、あまり押し付けるのも気が引ける。
じつは、もう一種類、全く食べたことも調理したこともない、小さなシシトウみたいなものが、大きな袋にどさっとある。
「これ、何?どうする?食べられる?」と、娘婿に尋ねたら、「大丈夫です」と快く半分引き受けてくれた。
うちの分はまだどっさり、手付かず。
どうしましょ。焼く?茹でる?和える?
早くしないと、腐ってしまう子宮頸癌針

1番、助かったのは、とうもろこし。
茹でるのは良いが、分割するのが包丁ではなかなか切れない。
切りながら、ヤ◯ザの小指切り落とし儀式を連想しながら、きっと骨ごと切れるんだろうなあと思って切った。
奮闘の甲斐あって孫たちに大人気で、取り合い、奪い合い。
それと、サツマイモ。
根菜類や玉ねぎは長持ちするから大歓迎。
ミョウガが日持ちしないので、あっという間に悪くなるのが早くて困った。(食卓に出したけれど)

何しろ日持ちのしないモノを予定外に突然、大量にいただくと、早く消費しなければ、、、と焦る。
時間との勝負で、精神的に負荷がかかる。
好きな野菜はwelcomeだが、苦手な野菜が困る。
フードロスには絶対にしたくない。

で、、、
これは前置きで(長い!)
使い損ねていた大根が、常温のまま置かれて日に日に萎びているのが気になりつつ、見なかったことにしよう、と、先に冷蔵庫保存の野菜から取り掛かっていた。
で、すっかりしなしなになって一回り小さくなった大根。
切ってみると、すでに切り干し大根状態。
こりゃいかん、とは思ったが、なにしろ打倒!フードロス。
大根の煮物にしようかと思ったが、こんなにスカスカの大根では、どんなに良い味を付けてもダメだろうと諦めた。
ダメモトで、季節外れの豚汁にした。
豚汁なので、サツマイモも入れる。
ほとんどスカスカ大根の大量煮物のような豚汁。
大人は無理だと思い、孫に恐る恐る出すと、、、なんと小5孫がおかわりしてくれた。
そして、驚いたことに、好き嫌いの激しい3番目保育園女児が、なんと4杯!!も!
自分で食べるか、冷蔵庫保存の後にやむなくフードロスになるかと、諦めて、保存容器に移していたら、彼女が鍋底をすっかりさらえてくれて、びっくり、大助かり。
(塩分取り過ぎ、大丈夫助聽器價格?)
先週も不味い失敗作の大量、筑前煮を延々一人で食べ続けた経緯があり、覚悟していたが、この大根はさすがのわたしも無理だろうと思っていた矢先、、、
こんな嬉しいことはなかった。

何があるか、わからない。
しかし、なんであの豚汁、あんなに人気があったのだろう。
おかわりする孫はさておき、他の孫たちもキレイに食べてくれていた。
喜びって、こういうところから不意に降ってくる、、、。

の子供たちは今の孫たちに

トランプ。
ゲーム中、先に勝った小学2年の孫が、わたしの背後からカードの出し方をアドバイスしてくれる。
「今、この強いカードから出す!」と。
もう完全に孫に完敗した755 脫毛
ババ抜きとか、そういうアタマを使わないゲームではなく、カード配分と出し方のタイミングで勝敗が決まる「大富豪」というゲーム。
わたしの若い頃は「大貧民」と呼ばれていたもの。
わたしの時代では無かったものだが、4枚同じ数字を揃って出すと「革命」と呼ばれる、強いカードと弱いカードの価値が逆転するルールや、更に新しいルールとしては、「11」を出された次の人からはカードを11より弱い順に出さなければいけない縛りが加わった。
わたしの時代のルール、娘や娘婿の時代のルール、地方ルールも加わり、面白い。

理解力、記憶力、思考力、即戦力、小学2年の勝ち!!
あっぱれ。
はぁ???
喜んでいる場合ではないが。

娘、娘婿、小4男児孫、小2男児孫、わたし、5人で「大富豪」をすると白熱。
保育所年中?女児孫が加わると、(5歳孫は)大富豪が出来ないので「ババ抜き」にチェンジ。
2歳女児孫は最近は、以前ほど激しく邪魔をしなくなった。
いずれ3年も経つと参加することになるだろう。
わたしの勝算順位はどんどん落ちそう。
皆んな、わざと負けてくれるかも知れない。
そう遠くない将来だ。

欲を言えば麻雀が良いのだけど、麻雀は1卓で4人しか出来ないし、幼児では無理だから、やはりトランプが無難。
姑とも子供が小さい頃、夫の実家に行くと
わたしたちは5人でよくトランプをした。
娘もわたしも懐かしいシーンが蘇る。
娘は孫だった当時を、わたしは嫁(母)だった当時を再現している。
姑役をわたしがスライドしてバトンタッチ。娘は当時のわたし(母)役にスライド、当時のわたしの子供たちは今の孫たちに入れ替わるDermes 脫毛
姑がいなくなった代わりに孫たちが時間をスライドして順番に一代ずつ時代が移り送られている。

先日見た写真。
寝転んでいる若い舅の頭をぽんぽんと軽く叩いている幼児。
幼児は、夫の姉の子供。舅にとっては初孫。
(その幼児も、成人して家庭を持ち、子供はもう社会人。孫が出来ても不思議ではない歳)

同じ部屋、同じアングルで、寝転んでいるのは、夫。ぽんぽんと叩くのは孫。
そのショットとダブった。
目の前に同じ光景があるが、時代は移っている。
(さらに、ぽんぽんと叩く乳幼児だった孫はトランプ指南までしてくれるようになった)

同じ空間に代が代わり時間だけが移っている。
静かな幸せの光景である。
些細なことにこだわったり、腹を立てたり、ほんとうに小さな小さなことだと感じる。

ほんの僅かな摩擦は生きている証拠。
そうやって毎日ガチャガチャしながら、
過去から現在、未来へと、大事な生命を育んできている脫毛邊間好

は認識されるムード

各人のギャップの隙間を埋めるのではない。
ギャップがありながら同時に進む。

これは、わたしが今まで歩んで来た道とピタリと重なる。
ギャップがあることを知る。
ただし、ギャップの存在は受け入れるが、相手の意見、感性、主張は受け入れない。
世の中には別の考えや思いがあるということを知ることに役立つ。
無理やり同調する必要はない。
複線のまま進む。
大規模な駅のように、何本も路線がクロスするが、同一の線路とは限らない。
電車の車体も別、何両目か車両も別。
違うんだということを理解する冷凍溶脂
吸収、合併のように、合わせるわけではない。
個体と個体が同じ時空に居合わせる。
それぞれ別のもの。
多様性を受け入れる。

が、これがなかなか難しい。
価値観が違う、まして、正反対の価値観の場合、お互い、全く受け付けられない。
ただただ「違う」という事実を受け止めるしかない。
受け入れられないと、個人なら「絶交」。
数や力が増すと、「分断」ということになる。
分断の見本は世界中にいっぱいある。

日本人は調和することに慣れている。
和を乱すのは嫌い。
乱す人は少数派扱いだが、最近は性的マイノリティは認識されるムード。
だが、高齢の人は拒絶反応を示す場合がある点阵激光

ちなみに、ギャップと共に歩んで来たと大きな口を叩いて前述したが、わたしの経験したギャップはあくまでも家庭内。
社会ではない。
小さな小さな小さな話だ。
社会に出ていっても、必ず家庭に戻る。
家庭には小さなギャップは存在していても、見ている方向、目指す方向は同じ。
だが、一番小さなコミュニティである家庭にも大きな分断はある。
世代ギャップ、男女ギャップ。
これが両方加わると強烈。
頭、カチンコチンのおじいさんと、今の風潮を取り入れようとするおばあさん。
説明するまでもない。

男女の違いは埋められないと痛感する。
男女の溝が存在し、お互いに理解出来ないということをわたしは理解している。
なのでそのまま、原型のまま、変化することがない石アタマの男性たちと並行に歩んでいる。
が、この先々、貴重な残り人生をあまりにも理解できないモノに歩調を合わせる意義を見失っている。
共存しない選択肢もある。
別コースを行くほうが、お互いウィンウィンだ。
が、介護やらなんやらが絡まって、理想通りにはいかない。
自分の思い通りにはならない。
それも人間らしい、切っても切れないもの急救課程