は認識されるムード

各人のギャップの隙間を埋めるのではない。
ギャップがありながら同時に進む。

これは、わたしが今まで歩んで来た道とピタリと重なる。
ギャップがあることを知る。
ただし、ギャップの存在は受け入れるが、相手の意見、感性、主張は受け入れない。
世の中には別の考えや思いがあるということを知ることに役立つ。
無理やり同調する必要はない。
複線のまま進む。
大規模な駅のように、何本も路線がクロスするが、同一の線路とは限らない。
電車の車体も別、何両目か車両も別。
違うんだということを理解する冷凍溶脂
吸収、合併のように、合わせるわけではない。
個体と個体が同じ時空に居合わせる。
それぞれ別のもの。
多様性を受け入れる。

が、これがなかなか難しい。
価値観が違う、まして、正反対の価値観の場合、お互い、全く受け付けられない。
ただただ「違う」という事実を受け止めるしかない。
受け入れられないと、個人なら「絶交」。
数や力が増すと、「分断」ということになる。
分断の見本は世界中にいっぱいある。

日本人は調和することに慣れている。
和を乱すのは嫌い。
乱す人は少数派扱いだが、最近は性的マイノリティは認識されるムード。
だが、高齢の人は拒絶反応を示す場合がある点阵激光

ちなみに、ギャップと共に歩んで来たと大きな口を叩いて前述したが、わたしの経験したギャップはあくまでも家庭内。
社会ではない。
小さな小さな小さな話だ。
社会に出ていっても、必ず家庭に戻る。
家庭には小さなギャップは存在していても、見ている方向、目指す方向は同じ。
だが、一番小さなコミュニティである家庭にも大きな分断はある。
世代ギャップ、男女ギャップ。
これが両方加わると強烈。
頭、カチンコチンのおじいさんと、今の風潮を取り入れようとするおばあさん。
説明するまでもない。

男女の違いは埋められないと痛感する。
男女の溝が存在し、お互いに理解出来ないということをわたしは理解している。
なのでそのまま、原型のまま、変化することがない石アタマの男性たちと並行に歩んでいる。
が、この先々、貴重な残り人生をあまりにも理解できないモノに歩調を合わせる意義を見失っている。
共存しない選択肢もある。
別コースを行くほうが、お互いウィンウィンだ。
が、介護やらなんやらが絡まって、理想通りにはいかない。
自分の思い通りにはならない。
それも人間らしい、切っても切れないもの急救課程